自己責任という生き方

先日、自己責任という言葉は使うべきではないなぁという記事を書きました。

参考:自己責任ということは何を意味するのか

よくよく考えてみてこれは他人に使う場合のことではないかと思うようになりました。

では、他人に対して使うのはあまりにも愛がないとは言え、自分に対して使う場合にはどうなのだろうかということを考えてみてみたいと思います。

 

1.自己責任という生き方

自己責任という生き方をしてみようと考えてみた時に、言葉の通り自分の行動に責任を持つということです。つまりはその行動によって起こった事象は自分が管理しているということです。いいことも悪いことも自分がすべて受け止めるということ。

では、もっと深く考えてみて、自己責任を持つにはどうするべきなのかといえば、目標を持つこと、ビジョンを持つこと、将来に希望を持つことではないかと思うのです。

いくら自己責任だからといって自分が他人に悪影響を与えてよいかといえばそうではないと僕は考えます。せっかくならみんなが幸せな世の中にしたい。であれば、その世の中を幸せにしたいという目標、ビジョン、希望を実現するためにはどう行動していくのかを決めていく。いつもの自分の行動規範にまで落とし込んで自分が自然に振る舞えるように心に刻みこむ。それが自己責任という生き方をすることに繋がるのではないかと思うのです。

ここで書いたことはあくまでも例ですので、あなたが目指したい目標などがあればそれに向かって生きていければいいのではないかと思います。

2.人生に目標を持つことの重要性

これは実は人生をより良く生きることに繋がることは読んでいただければ解ると思います。ただ、これだけではなかなか自己責任ということを体現できるかといえばそうではないと個人的に感じているのです。こう書いている僕もまだまだ全然です。入り口に立っているのかどうかも怪しいです。なぜなら、ここまで出来るようになるには精神的な成長、成熟した精神性というものが必要になってくるだろうと思えるからです。

しかし、できないというわけではありません。それに向かって、目指して訓練していけばそこの道にたどり着けるように成っているのです。動きさえすれば目指しさえすれば。ここで人間の悲しい性ですが、その時の自分の精神性がそれを受け取れるかどうかによって受け取ろうとするのか取りこぼしてしまうのかは決まります。チャンスは何度もあるので落胆することはありません。ただその時ではなかったというだけのこと。

そこで、人生に目標を持つということはどのような意味においてもとても重要であると思うのです。

それがあって、自己責任において行動していくことができるようになり、人生が形作られていくのです。もし、つらいことや悲しいことがあったとしてもそこから何か学び取り他の人に良い影響を与えていければそれは人生の肥やしになり、醍醐味となり生きる楽しみとなるのです。

 

あなたも自分自身で自己責任という生き方をしてみるのもよいかもしれません。

 

自己責任ということは何を意味するのか

少し前によくテレビでも「自己責任」という言葉が流れていましたね。実はこの言葉あまり使うべきではないんじゃないかと最近思うようになりました。なぜかといえば、この言葉で大体のことが片付いてしまうような気がしてしまったのです。そして、結構冷たい感じがするというか深く考えると何もできなくなるようなそんな危険性をはらんでいるような…

そこで、この記事を書こうかずっと悩んでいましたが、思ってしまったことですし、書いてしまおうと決意して今日に至ったわけです。なので、これを読んでもひとつの考えであると思って読んでみてもらえれば幸いだと思います。

それでは、自己責任ということがどういうことなのか、どうして使うべきではないのかを書いていってみたいと思います。

 

1.この記事の前提とする背景

ジェームズ・アレンさんの「原因と結果の法則」に多分の影響を受けています。そのため、原因→結果というつながりを意識しているため、行動も発する言葉も思いもそれが原因であれば、自ずとその後の事象に繋がるということを念頭に置いています。これには、自分のみならず自分と関わりのある他人も更にはその背景、成長の過程なども含めて考えて書いていますので、ご理解の程よろしくお願いいたします。

2.「自己責任」の意味

(1)一般的に言えること

自己責任の意味を調べてみました。興味があればご自身でも調べてみてください。僕が調べた限りでは、「自分の行動による影響は自分で責任を取るということ。その内容には他人は一切関わりを持たない」ということです。

(2)個人的に考えること

僕は行動だけではなく、言葉も思いもそこに含まれると思っています。そして、それに影響されるもの、例えば話をする相手とか世話をしているペットとかそのようなものにどのように接するかということも更にどのように今まで生きてきたかということも考えたうえでの行動が言葉が思いが必要であってそれに責任を持つべきなのではないかと考えるようになったのです。

これには、前述の背景のみならず自己啓発書などにも書かれていると思いますが、「変えることができるのは自分のみである。他人を変えることは難しく、不可能に近い。」という考えに基づいているものです。これは、実は自己責任に繋がる考えだと思っています。他人の行動は自分が責任を負うべきではないし、負えるものではないということを暗に示唆しているのではないでしょうか。

自分が行動を起こす、言葉を発するなど相手に影響を与える行動をしたあとに、それを受け取った相手がどのような行動を起こすのかということをある程度は予想をすべきではないのかなと思うのです。だから行動をした後にどのようになるのかはその行動を起こした人の責任となるような気がするのです。

もし、人と人が話をしている場合にはこれが交互に行われます。

・Aさんが言葉を発する → Bさんがどう受け取りどう行動するかはある程度予想

・Bさんが言葉を受け取る → Bさんの中で噛み砕き

・Bさんが言葉を発する。 → Aさんがどう受け取りどう行動するかはある程度予想

これの繰り返しです。

つまり、このように考えると自己責任とは今に始まったことではなくずっとむかしから自分たちの中で意識しなくても普通にやれていたことであるとおもうのですが、最近はこの流れにうまく乗れない人たちも出てきたような気がします。もしかしたら僕もそうかもしれません。これは誰が悪いというのでもなく、劣ったとかそういうのでもなく、時代がそうなるようになってしまっているというのが僕の考えです。

ですから、今の時代を生きるときには昔は考えなくても良かったことを少しだけ考えるだけでずっと暮らしやすくなるような気がします。

 

3.「自己責任」のどこに引っかかりを覚えるか

これは、もうすでに述べているのですが、自己責任ということは考えれば考えるほど範囲が広くかなりのことをこの言葉で片付けることができるような気がするのです。これが僕がひっかかっていることです。しかし、これによって片付けていいこと悪いことってあると思うんです。だからこそ、極力使わないほうがいいんではないかと思うのです。

昔は考えなくても良かった自己責任がなぜ今考えなければいけなくなってきたかということに触れてこの記事を締めたいと思います。

<自己責任を考えなければいけない理由>

(1)時代背景

昔:大家族、村(組織の中で育つ)、一致団結

今:核家族、個(組織という認識が薄い)、個人プレー

(2)ルールというものに対する認識

昔は、時代背景にも書きましたが、大家族で村で育ちます。子育ても村全体でするようなイメージで、お隣さんからも叱られて当たり前です。すると、地域のルールによって生活する癖がつきますし、反省の仕方も学ぶことができます。これが学校でも家庭でもそれこそ村を歩いている時ですらそうだったかもしれません。つまり、共通のルールが染み込みますので、他の人に注意をされても反省し、自分で行動を正すことができますので、自己責任を意識せずともうまく立ちまわることができるようになります。

今は、核家族で鍵っ子も多いかもしれません。子育てといえば家庭の中で行います。地域との関わりもそんなに濃くはないのではないでしょうか。このようなことから考えると共通ルールというものを持ちにくい状況になります。他人に注意され慣れていないことのゆえに自分の感情に惑わされるのではないでしょうか。こうなってくると他人に注意すること自体が危険なことのように感じます。そこに自己責任を意識しなければいけない理由が出てくるのです。

これは、ビジネスにおいても同じことで知らない分野や知らない顧客にアタックしていくのが危険なことです。始めるのであれば、相手を知るところからはじめなければいけません。知らない人にどんな言葉でどんな態度で接すればいいかということを考えるべきだよなぁと思うのです。

あなたは、どのように感じますか?