子供の世界と大人の世界の違いを感じるとき

僕は子供の時からドラえもんが好きで大人になった今でもドラえもんを特に映画をよく見ます。その映画の中でもこの記事のタイトルのように子供と大人の世界の境界線を垣間見える時があるのです。

それは、作っている人の意図も往々にしてあるのですが、それにとどまることなく実際にそうなんだろうなと思う次第です。そこで本日はどの映画のどの部分で感じるのかということを大人になった僕の視点で書いてみたいと思います。

1.子供の世界

子供の世界とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。これはドラえもんの映画全般に言えることですが、子供であるのび太たちは大人に比べて柔軟にどんな世界でも受け入れてそこで全力で生きていこうとする部分が子供の世界だなぁと思うところです。

お話の中では現実世界の大人としてのび太のママやパパなど、登場人物の親が出てきます。現実の親よりも柔軟性はあると思うのですが、やはり大人というものを演じる部分において柔軟性、特に特異な物事が起きた時には柔軟性がないものであると描かれているような気がします。悲しいかな大人は生きてきた分だけ現実に晒されており、自分の無力さやいつのまにか自分の中で構築された普通というとても変な概念ができてしまうのです。すべての人がというわけではありませんが多くの人がそのような状態になっているのではないかと推測します。

しかし、ここではそれは悪いこととして表現しているのではなく単にそのような状態になっているのだということが言いたいのです。対して子供は先程も書きましたが、非常に柔軟です。話の中では友人となった人が困っている場合には友達として一人の人間として助けることが当たり前として行動する部分なんかは見習わなければいけないなと思うところです。

2.ドラえもんの映画の中で子どもと大人の壁を感じるシーン

この記事を書くきっかけとなったシーンがあります。それは、のび太の恐竜2006の最後の部分。のび太たち5人がタイムマシンで帰ってきてのび太の部屋を出てジャイアン・スネ夫・静香ちゃんが玄関から帰るところにのび太のママが声をかけるシーンです。

のび太のママは、のび太たちに問いかけます。「大勢で何していたの?」と。

のび太は振り返り、「ちょっと。」と応えるのです。過去の世界で経験してきたことを友人と分かち合い、その余韻にひたっているところに大人は入っていけないのです。そして、このシーンを見るたびに子供だった自分が大人になり、その子供の世界をもう2度と経験することもできないし、子どもたちと共有することもできないだろうと実感するのです。

3.大人の世界はつまらないのか

僕は、これを考えるたびに大人の世界も捨てたものではないと考えられるようになってきました。そして、大人の世界はそれなりに面白いとも感じます。子供の頃感じていた楽しかったことが大人になって少し目先や方向が変わっただけで本質的にはほとんど何も変わらないということに気づいたのです。

ただ、感じることやできることできないことは大人と子どもとでは違います。できる範囲の中でそれぞれが感じ成長していけばそれでいいのではないかと思うのです。

大人もまだまだ成長途中にあるのだと思うと子供の頃のワクワク感が戻ってくるような気がして個人的にはモチベーションが上がってきます。

このように感じながら、子供の世界に入れないことや共有しにくいことは理解しつつ、できる範囲で子どもたちやその世界のことを理解し、応援していきたいと思います。

 

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